2016年11月9日

届きあう、ということ


鎌倉芸術祭参加~饗宴ロウドクシャまで、怒涛の2週間を過ごし、年齢不詳と言われる私も結局は寄る年波に勝てぬのか、今だ体のあちこちがガタピシ軋む日々を送っている中で。

内田百閒「件」

内田百閒「件」について、「ことばの映画館」編集長の小川学さんより感想をいただきました。ことばの映画館▼http://kotocine.blogspot.jp/

※写真は、2016年4月2日東福寺での野外公演「土方巽1960 しずかな家Ⅱ」に参加したときのものです。

朗読者公演「となりの百鬼園」にて
   奈佐健臣氏による内田百閒『件』を観劇

氏が紡ぐ場のゆらぎに大野一雄の幻影を見た気がする(もしくは百閒の憑依か)
ことばの余韻、うごめく躰の軌跡に引き込まれてゆく
それは心地良く。しかし背筋が凍りつく。
ゾクゾクと三半規管が反応する緊張と緩和『件』
さて、「朗読」には、にくづき(肉付き)が含まれるのだということを饗宴ロウドクシャは文字通り体現していた
ことばを発すること、それはつまり声帯を震わせ、躰を擦り減らす行為でもあると
奈佐健臣氏から発せられたそれは正しくからだの一部分であった

(内田百閒『件』朗読者公演にて/「ことばの映画館」編集長 小川学)


“朗読者”は、「文学を、体感する。」というモットーの元、
文字の四次元化を目指すとか、清透に腥く茫漠立ち昇る作家の影を見せたい、など、目に見えないものを練って目に見えないものを作るその難しさと向き合ってきました。
               
文字と声と肉体と音の関係。
文字と言葉はイコールではなく、言葉と声はイコールではなく、けれど声も言葉も肉体であるという、そんな不安定で不確定なジレンマこそが“朗読者”の心臓であると、薄々感じている恐怖。
                         
曖昧模糊としている制作の現場において、目には見えないものが届いた!と感じるその瞬間は、穏やかな呼吸を取り戻すことのできる大切なひと時です。
                    
公演後のアンケートを一生懸命書いてくださる方々、SNS上に軌跡を残してくださる方々、こうして“届きあう”ということでわれわれは支えられているのだと、改めて感じ入りました。

esquisse 黒い箱「透く」
この眼が濁るから、時に世界が澱む。