小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)
1850年6月27日 - 1904年(明治37年)9月26日
ギリシャ西部のレフカダ島で、アイルランド出身の父とギリシャ・キシラ島出身の母の間に生まれた八雲。 西洋と東洋、二つの血が流れる人でした。
若き日の八雲は、物語を書くことが好きな青年。出版社で働く傍ら、図書館へ出入りしては執筆し週刊誌へ投稿していました。 その文才は認められ、残忍な殺人事件のルポは彼の名を事件記者として広めました。
八雲は、1903年(明治30年)、勤めていた帝大講師の職を突如として解雇されてしまいます。大学の非礼な措置に憤る八雲。そして、世界の批判もまた、八雲の立場に同情し日本政府の忘恩的な処遇に対して痛烈に避難しました。アメリカのコーネル大学からの講師依頼もあり、八雲の心は揺れましたが、健康上の不安もあり渡米を断念。日本に関する、八雲自身にとって集大成となる作品の執筆を決めました。「日本 一つの試論」、または「神国」と呼ばれる一冊です。
「この書物は私を殺します。・・・こんなに早く、こんなに大きな書物を書くことは容易ではありません。手伝う人もなしに、これだけのことをするのは、自分ながら恐ろしいことです」
と八雲自身が語っています。(八雲夫人節「思い出の記」)
その言葉通りというべきか、八雲はこの本の校正を終えて間も無く、出来上がった本を見ないうちに、1904年(明治37年)9月26日、東京大久保の自邸で心臓発作により他界しました。54歳。八雲は自身の告白どおり、”本”に殺されたのでした。
「風変わりなもの、奇妙なもの、異国的なもの、怪奇なものの愛好に身を没頭させるのが、自分の気性に合っている」と語った八雲がのこした"日本"への深いまなざしは、彼が肉付けした物語の中で、私たちに再び読まれることを静かに待っています。